つれづれに
情報社会化をみながら、新たな家族のあり方を考える視点で、つれづれなるままに。
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少子化の必然
 少子化の原因は、かつては女性の高学歴化と社会進出だと言われた。今は違う。晩婚化と非婚化だといわれる。しかし、晩婚化とか非婚化は、少子化を別の言葉で置き換えたに過ぎず、まったく少子化の原因を言ったことにはならない。
 少子化の原因は、子供がいなくても、生きていけるようになった。つまり、個人にとって、子供が不要になったことだ。なぜか。新たに興りつつある産業が、人間を不要だと言っているのだ。
 コンビニのパートがまっとうな職業となるようでは、こどもはいらないだろう。
 
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育児と教育
 少子化が問題視されているが、子供を増やすことばかりに気持ちが行って、子供そのものにはあまり感心がないようだ。
 子供は誰かが面倒を見なければ、生まれたままでは成長できない。子育てには、育児と呼ばれる生物的な側面と、教育と呼ばれる社会的な側面があるように思う。きわめて大雑把にいうと、いままで育児は女性が担い、教育を男性が担ってきた。これは出産が生物的な行為であることから引き続き、家事労働に従事する女性の役割とされたが、男女別の性別役割分業ととても馴染みやすかったからだ。
 江戸時代以前は、全員が家におり家で働いていたので、性別役割分業と育児の関連が目立たなかったろう。また当時は、文字を知らなくても農業はできたし、計算ができなくても生きていけた。だから、教育の役割が低くて、育児の比重が高かった。そのため、子育てにおける男性と女性の役割分担が、あまり問題にならなかっただろう。
 近代になって、男性が工場などへ働きにいくようになって、初めて育児と教育の分化がおきたのだろう。そう考えると、子育てにおいても性別役割分業が効率的になったのは、近代特有の問題だと思えてくる。今後、男女性別役割が消失していくと、子育てにおける男女の役割も変わっていくだろう。
 


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