つれづれに
情報社会化をみながら、新たな家族のあり方を考える視点で、つれづれなるままに。
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日本の老女に
 西欧諸国の老女たちは、怒るとすぐに杖を振り回します。それに対して、日本の老女たちは怒りをすぐには表しませんし、杖を振り回したりしません。そして、彼女たちは小さな子供たちに、とても優しい。日本の老女たちは、なかなかにチャーミングです。
 しかし、日本の老女たちは、長年にわたり忍従を強いられてきた結果、怒りを表現できなくなったのかもしれません。とすると女性の自立という意味では、喧嘩っぱやい西洋の老女たちのほうが自由なのでしょうかね。
 ボクも老境にさしかかってきたので、男性の老後は見えるような気がしますが、専業主婦が老女になったときには、どんな老女が現れるのでしょうか。
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老女と
 渋谷のドトールコーヒーでの話。1人の老女が、杖をつきならカウンターまで、よたよたとやってきて、ボクの前にたって注文を始めた。彼女はのろのろとカフェロワイヤル注文した後、ワッフルとスイートポテトを交互に手にとり、しばらく見比べていた。やっと決心がついたらしく、ワッフルを注文し、おもむろにガマグチを取り出した。
 370円の料金を払うべく、ガマグチのなかから硬貨を取り出し始めた。一枚一枚、硬貨を確認しながら、カウンターの上に並べている。しかも、ゆっくりと。当然のことに、ボクはイライラしながら、後ろで順番を待っている。しかし、彼女は悠然と、あわてることなく硬貨を吟味している。
 ここで外国での出来事を思い出した。彼女の行動は、先進国の老女たちと、まったく同じなのだ。先進国の老女は、決して若者に譲らず媚びず、自分をきちんと主張する。我が国の老女も、渋谷で自我を主張する時代になった。
 ボクも内心では、「このくそ婆、早くしないか」と思いつつも、顔はにこやかに対応する。老女のほうも、「この青二才が、そんなに急くではない」と思っているだろうが、表面上は柔らかい対応をする。内心と行動を使い分ける日本の老女は、なかなかに素晴らしい。
男性の売春
 1月14日の東京新聞によると、名古屋で男性が売春防止法違反容疑で逮捕されたという。この男性は、女性へと性転換した人で、外見はまったく女性だったらしい。女性が客引きをしたので、逮捕したところ、男性だったというわけである。
 売春問題を除いて、いくつか問題を感じる。
1.(売春を犯罪とすることには反対だが)売春は女性にしかできないのか?
2.持っていたパスポートには女性と記されていたというが、それでも男性扱いするのか。
 1.はさておいて、公式文書であるパスポートに女性と書かれたいながら、男性と見なすのは公式性の否定ではないか。いつか鋏さんが、性転換しても男性は男性だし、女性は女性であるといっていた。その通りだと思う。しかし、性転換手術によって性が転換した人は、新たな性として扱うと、厳格な手続きのもとで国家は認めている。その手続きに従って、男性から女性に変わった人を、売春に関しては男性として扱うというのは、どう考えても変だ。 
 

頑張れ、女子野球部
 中京女子大学の硬式野球部には、心から応援したい。男性との体力差をどう克服するか、困難だろうが、ぜひ男女対抗戦を実現して欲しい。
 新聞で見る限り、遠投力の違いが大きいらしいが、中継でしのぐとか、方法を考えてもらいたいものだ。男性ランナーが、女性のキャッチャーに激突するのは、はばかられるかも知れない。でも、勝負を避けるのは逆差別だから、男性も堂々と勝負するだろう。映画「ガール・ファイト」でも同じ問題が扱われていた。今後に期待したい。
核家族のプライバシー
 かつて、夫婦ケンカは犬も食わない、と言われた。働きのあったカミサンは、ダンナの腕力に対して果敢に反撃にでることができた。しかし、専業主婦という経済的な寄生虫になって以降、妻は夫に反撃できなくなり、「殴られる妻」がうまれた。そのとき、警察は民事不介入の原則を守り、家庭内に踏み込まなかった。
 今では、家庭内暴力が犯罪と認知され、警察権力=国家権力が家庭にはいるようになった。これは家族のプライバシー=私性が剥奪されたことを意味する。私性をもった聖域だった核家族は、その私性を剥奪されたことにより、分解を余儀なくされた。その結果、家族が私性を保護するのではなく、個人が私性を守る砦になった。つまり、核家族が単家族へと分裂したのである。
非暴力化と子供
 現代社会は暴力がはびこって、物騒な世の中になっている、と警察やマスコミはいう。しかし、躾と称して暴力をふるうことは、今では否定されている。家庭内で暴力をふるえば、DVとして逮捕の対象である。
 思い出してみれば、かつての親父たちは簡単に手を挙げた。親父にぶん殴られたというのは、子供の世界ではあたりまえの科白だった。当時の父親は暴力主義者とは言われなかったが、子供をぶん殴る父親は、今では充分に暴力主義者と言われるだろう。
 暴力が否定されながら、親による子殺しがなくならない。親の子殺しは、あまり大きな記事にはならないが、子による親殺しよりはるかに多い。結局、大人たちは自分の立場からしか、社会を見ることができないのだろうか。少子化の議論にしても、少子化すると大人が困る、といった論調を感じる。男性に続いて女性も自立しつつある現在、残された問題は子供の自立である。子供をどう自立させるか、これが問題である。
 
謹賀新年
 サイト内においていた<つれづれに>を、外部のサイトに間借りしてブログにしました。どんなことになるか分かりませんが、しばらくはこれでやっていこうと思います。
 


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